忘れた。
「お前は、一体何なんだ?」
従順な影のように少年について歩きながら、彼女は何度目になるか分からない問いかけを口にした。
「忘れた。」
耳に心地良いアルトの声で、少年が何度目になるか分からない答えを返す。
「そうか。」
あっさりと引き下がる彼女に最初は訝しがった少年だが、幾数回も繰り返されたこの遣り取りに流石にもう慣れたようだ。
眼前に広がる黄味がかった荒野。終わりは見えず、また事実終わりというものなどないのだろう。最果ての地があるというのなら、このままひたすら前進を続け、そして一周回って今この場所がそうだ。
荒野を歩む少年はそれを知っているのかいないのか。
ふと。唐突というには緩慢に、額の汗を拭い一つ溜息をつくと、彼は約三時間ぶりに足をとめた。そのまま、最果ての地の一角、転がる岩の影に腰を下ろす。
それまで少年の影でさりげなく涼を取っていた彼女も、素直に歩みを止め、彼の足元に座る。出会ってさほどもたたない二人だが、特に気にするような距離感もない。それは両者があまりにもかけ離れた存在であるからだろうか。
じりじりと地を焼く太陽を憎憎しげに見上げる少年を眺めながら、彼女は再び――――今度は心の中で問い掛けた。
『お前は、一体何なんだ?』
自身は何であるかという問いを彼女は持たない。代わりに、答えのみを持っている。
黒鉄の髪に不吉なダークオレンジの双眸。少女の肢体。一片の狂いなき面貌。
彼女は人喰いの人型妖魔にしてニルバーナ。過不足無く彼女はただそれだけのものである。
しかし、彼には“答え”がない。
年を聞いても、旅―――ひたすらに荒野を彷徨う事を旅と言うのなら―――の目的を聞いても、不死の訳を聞いても、彼は「忘れた。」としか言わない。
ただ、名前だけは教えてくれた。肉、あるいは人間、お前、と呼ばれるのがよほど嫌であったらしい。
ちなみに当初、一通りそれらの呼称を試した後、彼女が数瞬の思慮―――その深浅を時間で測るのは浅薄に過ぎる―――の末に敬称を駆使し、“お前さま”と呼んでみたところ、彼は物凄まじい勢いで飲みかけの水を虚空に噴射した。
まったくもって不可解であった。
行動自体も不可解であるが、何故口に含むほどの少量の水があれほど派手な噴水になったのかがより一層不可解であった。濡れた口元を拭う暇すら惜しんで、少年は自分の“名”を叫ぶように名乗ったものであったが。
さらに言うならば彼女が次に用意していた呼称は“肉くん”。略してニック。一度も呼ばれることのなかった呼称を舌の上で転がし、彼女は心中で一人ごちる。とても発音のしやすい音であったのに、と。
兎に角。
その、どうしようもなく不可解な少年の名は“幸”と言うらしい。もっともそれも、元の字は忘れてしまったので勝手な当て字を使っていると言っていたが。
―――――“幸”。
象牙色の肌と塩味の薄い味は、今まで彼女が出会った事のないものだった。成年に達しない骨格、しなやかな筋肉。狂いの少ない顔面に埋まる双眸、どこか達観した色合いの焦げ茶には、彼女のダークオレンジの瞳がよく映えた。
荒野そのもののような黄砂色の髪は、彼女の黒鉄色の髪と同じくらい珍しいものなのではないか。
そしてやはり何より特筆すべきは、“不死”の肉体。
頚動脈を食い千切ろうが腕の一本を失おうが重要臓器を抉られ様が問答無用に生きている。眠りさえすれば、あるいは昏倒してしまえばほんの数秒で再生してしまうのだ。眠りは死の双子だと言っていたのは他ならぬ彼であったか。
骨が骨を産み、肉が肉を産み、筋繊維が絡まり皮膚が覆いそして血が満たされる。脳さえも砕かれたところで再生するのだと言う。ただし、不死と化した当初まで記憶がリセットされてしまうらしいため、その部位だけは彼女の舌が侵したことは無い。
もっとも彼は、長く生きる間に、不死と化した記憶さえ忘れてしまったと言っていたが。
彼に思いを馳せながら、上唇を無意識に舌がなぞる。舌と唇が憶えた彼の味。
鋭い犬歯を押し隠した可憐な唇が開かれようとした時、ようやく少年―――幸は彼女の視線に気がついたようだった。
「ん?なんだ、腹減ったのか?言っとくが顔と腹と首は駄目だからな。」
「・・・なぜ?」
「腹は内臓出るし、首は血がすごいし、顔はあんまり傷つけたいもんじゃないからな。大体喰えるような部位でもないだろ。
無難に腕あたりにしといてくれ。」
そう言って、ポンと小さな注射器を放ってよこす。
いくら不死とはいっても、痛いものは痛いらしい。すでに注入された色の無い液体は麻酔薬だ。
正直、薬に侵された肉はなんとなく味が変わっていそうで嫌だったが、一々痛みにのたうちまわられるのも面倒くさい。
( 新鮮、ということでもあるが。 )
一瞬、麻酔薬を持つ手が止まる。脳裏に踊り食い、という物騒な言葉が浮かんでしまう。
が、割にあっさりと彼女はその単語を脳内から消し去った。とりあえず今は喰えれば良いと。別に、嗜虐趣味だとかマニアックな性癖だとかは無いのである。彼女は基本的に獣であるゆえに。
彼女の獣としての真っ当さに危ういところで救われた事など露知らず、幸は片手で手際よくガーゼやらなにやらをひっぱりだしてゆく。
もう一方の腕を手に取り、慣れたように血管を捜しながら、ふと。
彼女はまず真っ先に訊いてしかるべき問いを発していないことに気がついた。
「そういえば、どうしてお前は私を拾ったんだ?」
彼は面倒くさそうに答えた。
「忘れた。」
なんとなくムッとした彼女は、次の瞬間無言で彼の腕に喰いついていた。
「ッ・・ぎゃああアッ!?お、前ッ、麻酔まだしてねェって・・・ぐァ!ッ、こらッこの・・ァアアッ!!」
荒野に少年の壮絶な悲鳴が響き渡る。三口ほど齧ってようやく口を離した彼女は、少年の
「麻酔はどうした・・・っ!?」
と言うかなり本気に涙混じりの問いに、ちょっぴり不機嫌そうなオーラを滲ませ、言った。
「忘れた。」
■THE END■
▼後書き▼
こりもせずカニバ第二弾。そういえば一話目ってほとんど外面描写なかったよなーと今更気付く(さすが泥縄式)
書いていて脳以外にどうしても食べさせてくれないだろう部位があるだろうなぁということを思わずにいられません。ヒント:全男性の悪夢。
そんな感じで。